聖書のみことば
2023年10月
  10月1日 10月8日 10月15日 10月22日 10月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月8日主日礼拝音声

 最初の教会
2023年10月第2主日礼拝 10月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第2章40〜47節

<40節>ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。<41節>ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。<42節>彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。<43節>すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。<44節>信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、<45節>財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。<46節>そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、<47節>神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 ただ今、使徒言行録2章40節から47節までを、ご一緒にお聞きしました。
 40節に「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」とあります。まことに強い言い方で、ペトロは彼の生きていた時代を言い当てます。「邪悪な」と訳されている言葉は、別に訳すと「曲がっている」という言葉にも訳すことができます。邪悪な時代とは、曲がった時代なのです。自分自身では正しい事を行ない、正しく生きているつもりでも、その正しさの尺度には、もしかすると、ごく僅かの歪みがあるかも知れません。これが正しい正義だと思って始めたことが、物差しが歪んでいるために、その先では正しさからかけ離れてしまって、そのために本人も苦しみ、また、多くの人々もそれに巻き込まれて苦しむようなことが、人間の歴史の中にはしばしば見られます。
 今、ウクライナで行われている悲惨な侵略戦争も、侵略が始まった時点で明らかに正しいことではないと世界中の人たちから見做されていますけれども、しかし、侵略行為に手を染め今も続けている人々は、もしかするとその最初の出発点のところでは、正しいことだと信じていたかも知れないのです。これは遠い国のことだけではありません。私たちの国も先の戦争では、アジア諸国の人たちは皆兄弟姉妹だ、これは正しいことだと言って戦いを始めてしまった過ちの歴史を持っています。人間の持つ正義の物差しがもし真っ直ぐであるのなら、私たちはあるいは正しい生き方ができるかも知れませんが、しかし現実には、ペトロの言う通り、私たちの正義は常に曲がっているようなところがあるのです。

 主イエスは以前、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカによる福音書5章 31節32節)と言われました。私たち人間の正しさの尺度には、どうしても自分中心になってしまう傾きがあり、そのため、どうあがいても真っ直ぐにはならないようなところがあります。そんな私たちに、御自身を捨てて十字架に掛かられた主イエスが、神さまを指し示す真の正しい方として出会ってくださいます。そしてペトロは、そういう主イエスを指し示しながら、「曲がった時代から、この方によって救われるように」と勧めたのでした。
 ペトロが人々に語ったように、私たちの中には、真っ直ぐに正しく生きてゆきたいと願っても、いつの間にか曲がりくねってしまうような弱さがあります。正しく歩みたいと思い、あるいは自分では正しく生きているつもりでも、何故かいつの間にか正しく生きることを離れ、自分中心の思いに衝き動かされて歩んでしまう、そういう不気味なところが人間にはあるのです。
 もしかすると、この世の大方の人は、自分が正しいと思ったことこそが正しいのだと考えて生きてしまうかも知れません。しかしその結果、一人ひとりが抱く正しさの尺度が皆その人を中心に考えられたものであり、他の人と共通するものでないために、互いに衝突し合い、ぶつかり合って、時に隣の人を傷つけたり自分が傷ついたりするのです。銘々が皆、その人自身の正しさの尺度を振りかざして生きるために、結局は、この世界の中で自分自身の人生と和らぐことができなくなります。自分の正義をどこまでも押し通して生きようとする人は、同じように正義を主張し押し通して生きようとする隣人を不安に思い、警戒して生きていかざるを得ません。

 ペトロは、自分中心の生き方が当たり前になっている人たちに、そのような曲がったあり方を離れるように勧めました。このペトロの言葉は、果たして受け入れられるものなのでしょうか。しかし思いがけず、このペトロの言葉に耳を貸し、新しい生き方を始めるようになった人たちが現れたのだと言われています。41節に「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。
 ここに記される3,000人というのは大よその数であって、3,000人丁度ということではないと考える人がいます。また別の人は、そもそも3,000人という数字に幾らかの誇張があるかも知れないと言います。しかし大事なことは、そのような数字の事柄ではなく、この人たちが、「ペトロの言葉に強く動かされ、自分中心の生き方を離れようとした。そして主イエスを信じるようになった」ということと、「洗礼を受けて弟子たちの群れに加えられた」ということでしょう。この二つのことが、ここに語られているとても大事なことです。
 キリスト教のことを知りたいと思って、この礼拝に来られた方がおられるかもしれません。本当にキリスト教のことを知りたいとすれば、ここに集まっている人数が何人かとか、その人数が増えているか減っているかいう物差しでは、キリスト教を知ったことにはなりません。本当に知りたいのであれば、キリスト教の信仰が何であるかを知らなくてはなりません。キリスト教の信仰の中心には、いつも主イエス・キリストがいらっしゃるのです。この方が、本当に正しい真っ直ぐな道を私たちに示してくださいます。

 今日、教会の伝道が不振であるとか、高齢化していると言って、しきりに心配する方がいらっしゃいます。そういう方は真剣に教会のことを思って心配しているのですから、そのことを軽く扱ってはならないのですが、しかしそこで思うことは、かつて日本の教会が「青年の教会」と呼ばれていた時代があって、その時代の教会こそが本来の姿だと思っておられるのかも知れないということです。太平洋戦争が終わった時、それまでの日本の若者は、国のために恐れず死ぬことを教えられていましたが、「人生をどう生きるのか、何のために生きるのか」ということは教えられていませんでした。ですから昭和の若者にとって、「人生をどう生きるのか。何のために、何故生きるのか」ということは大きな問いであり、そこにキリスト教の教えが丁度上手くはまるようにして、「あなたに与えられている人生は、神と隣人に仕えて生きるものなのだ」と聞かされ、それを受け止めて信仰に入った人が少なくありませんでした。そして、そういう影響を受けた方が、今、教会の中では上の年代になっておられるのです。
 当時の日本の教会は、「若者の教会」と言われていました。けれども逆に言うと、年輩の方々は今程多くはありませんでした。そしてそれが何を表しているかというと、今の私たちは、昭和の教会にはできなかった信仰の証しの道を歩んでいるということです。それは、「主イエス・キリストが確かに私たちに伴って下さり、どんな場合にも、どんな困難に直面しても、決して私たちを見捨てず共に歩んで下さる」という約束が真実であることを、聖書の御言葉によって知らされ、励まされ勇気を与えられながら生きて行くことを通して、私たちがしみじみと身をもって味わい現していくという歩みです。これは年配の方々のことだけではありません。今の時代に、若い人たちであっても、それぞれに与えられている課題の中で、「主が共に歩んでくださる」ということを味わいながら生きるようにされています。
 教会の伝道が不振なのは、私たちの教会に若さが無いためではないでしょう。むしろ、今の私たちが真剣に信頼して生きるべき方にあまり期待せず、心も向けず、自分たちの願いや思いばかりに心が向いてしまっていると、教会に来たとしても、本当に人間を新しくして下さる力ある方と出会わずに終わってしまうようなことがあり得るのです。教会で出会うべき方に出会わないまま、その横をすり抜けてしまうようなことが起こり得る、そのことを警戒しなくてはなりません。
 曲がりくねった自分自身の思いや願いでなく、本当に信頼すべき方に出会って、「曲がった世から救われなさい」と勧めるペトロの言葉に耳を貸す人こそ、幸いな人だと思います。そして私たちは、そういう幸いな者とされたいと心から願います。ペトロの伝えた主イエス・キリストだけが、私たちを本当に正しい真っ直ぐな道へと導くことがおできになります。

 そして、そのことを信じた人たちは「こぞって洗礼を受けた」と、今日の箇所には語られています。洗礼は水の下をくぐるのですが、洗礼の水には、「古い自分が死に、主イエスがそこから引き上げてくださって、新しい者にしてくださる」という意味が込められています。私たちは古いまま、自分の正しさを握りしめて言い張っていては、真っ直ぐに生きていくことができません。私たちの心は、いつも定まりなく動揺しているからです。今日は正しいと思っても明日には変わってしまう、それが私たちの心ではないでしょうか。
 洗礼の水は、主イエスの十字架の死に与って、移ろいやすい私たち自身が、そういう自分に死ぬということを表しています。主イエスの十字架の死によって、それまでこれが自分だと思って大事にしていたものがいかに罪深く過ちにまみれているかということが明るみに出されます。本当に真っ直ぐなものに出会う時にこそ、歪んだものが分かるようになります。十字架の光の下に私たちが照らし出される時にこそ、私たちは自分がどれほどに曲がっているか、自分の罪の惨めさと弱さを知るようにされます。しかしそれだけではありません。十字架の上から射してくる光は、そういう私たちの罪を引き受けて、罪を背負って死んで下さった主イエスがおられることを、私たちに伝えます。主イエス・キリストの死によって、私たちの罪は清められ、新しい命を生きるようにされるのです。

 そしてそのようにして洗礼を受けキリスト者とされた者たちの群れ、教会の姿が、42節に語られています。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と、4つのことが言われています。
 最初の「使徒の教え」というのは、主イエスの直弟子たちが「主イエスは私たちのために死んで、よみがえられた」と教えていたことを指しています。キリスト教の教えというのは、主イエスが教えた様々な良い教えがあるというのではありません。使徒たちの教えは、主イエス・キリストその方を指し示すのです。「十字架の上に、私たちの身代わりとなって死んで下さった方がおられる。その死の苦しみをもって私たちの罪を清算して下さり、その罪を滅ぼして下さり、3日目に復活して『わたしに従って歩んで来なさい』と呼びかけてくださる方がおられる」と使徒たちは教えました。それが最初の教会で何よりも大事にされていた中心の事柄でした。
 そしてその教えと並んで、教会の群れは「相互の交わり」、つまり「交わり」を大事にしたと言われています。これは、キリスト教信仰が自分独りで悟りを開くようなものではないからです。この点が仏教と非常に違う点です。日本では、私たちも日頃気がつかないほど仏教の影響を強く受けているようなところがあります。仏教は人生全てが修業だと教える宗教です。人生を生きて、その行いが良ければ仏になれるけれど、悪い行いの人生を生きたら次は動物や虫に生まれ変わると教えます。輪廻転生というのは、ただ死んだ人がまた新しい人に生まれ変わるのではありません。一生を修行の時と考えて、一人一人が良い人生を生きるように教えるのが輪廻転生の教えです。そしてそういう仏教的な感覚を、私たちは日本社会の中で知らず知らずのうちに身につけてしまっているようなところがあります。そうすると、信仰とか宗教は自分が悟りを開くもの、自分の心の持ちようだと思いがちで、「自分が赦されている」ということ、「あなたは主イエスの十字架の死によって罪を赦され、清められている」ということがなかなか分からないのです。キリスト者であっても、つい自分の行いやあり方がどうであるかということばかりが気になるということが起こります。いつの間にかキリスト抜きで、自分の行いによって救われようとしてしまう、そういう癖を日本人は持ちがちなのです。信仰の事柄も、キリストに従う者として自分がどれだけ情け深く愛をもって生きるかというような、自分自身のあり方の事柄にすり代わってしまいがちになります。
 しかし私たちは、自分の行いによって神の前に正しさを認めてもらうのではありません。神は、私たちが過ちを犯しがちな弱さを抱えていることを御存知で、そういう私たちを深く憐れんで、「それでもあなたはわたしのものなのだから、わたしの前に生きなさい」と、主イエス・キリストを通して私たちを招いてくださるのです。「あなたは主イエスの十字架の御業によって罪を赦され、清められている」と操り返し、教会の交わりの中で聞かされます。そしてそのことを思い出しながら、赦された者として生きる、感謝の生活へと招かれます。
 私たちは、自分独りだけで救いの悟りを開くのではありません。自分と同じく主に救われ、感謝して生きている兄弟姉妹たちとの交わりの中で、赦されて生きる喜びを皆で共に味わい、また愛されている者として、自分もまた隣人に仕えて生活することを学ばされながら歩んでいくのです。ですから「交わり」は、最初の教会の中で大切なこととして覚えられていました。

 主イエスの赦しに生きる中心に何があるのか。当然のことですが、主イエス・キリストが私たちのために肉を裂き、血を流してくださったという十字架の事実があります。ですから教会生活の中では、繰り返し聖餐式が信仰の事柄として守られていきます。最初の教会でもそうであったと、今日の箇所に「パンを裂くことに熱心であった」と語られています。聖餐は、古い時代には「パン裂き」と呼ばれていました。主の御体を表すパンを裂いて、皆でそれに与ったからです。
 そして最後には、「祈り」が挙げられています。「祈りの生活」と言われますと、私たちは個人個人のお祈りのことを思いますが、ここでは教会の祈り、つまり礼拝をささげることを表しています。

 このようにキリスト教の信仰は、悟りを開いた個々人がそれぞれの境地を生きるようなものではなくて、「御言による福音を聞かされながら、兄弟姉妹と共に教会の群れの中に抱かれ、主イエスの御体に与りながら、礼拝をささげる生活である」ことが、教会の歴史の初めから、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」という言葉で語られています。

 そしてそういう生活を過ごすキリスト者一人ひとりに、神さまの霊に対する何とも言えない深い畏怖と畏敬の念が生じたことが、43節に「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」と語られています。
 ここで言う「すべての人」というのは、ペトロの勧めに従って主イエスを信じ、洗礼を受けてキリスト者になったすべての人々という意味ですが、信仰生活を歩み始めた彼らに「畏れの念が生まれた」と言われています。
 それは、キリスト教の信仰が個々人の心の中の事柄ではなくて、聖霊の働きに励まされて生きてゆく、そういう教会生活の事柄だからです。教会の群れが世代を越えて地上に建てられ、ずっと持ち運ばれていることは、改めて考えると不思議な事ではないでしょうか。どこかに有力な宗教家が現れ、その先生の周囲に弟子たちが集まるというのであれば、そういうことはあるとしてもそれは一時のことです。その指導者が地上を去ってしまえば、弟子たちの群れは瓦解してゆくしかないでしょう。仏教は長続きしているように見えますが、それはお寺という財産があって、住職が代々血縁によって寺を守っているからです。謂わば、一つの家が続いているように続いているのです。けれども教会というのは、大変不思議な団体ではないでしょうか。教会の牧師は世襲ではなく、それどころか、カトリックの司祭に至っては独身ですから子供さえいません。そうでありながら、教会は続いてゆきます。地上の相続財産の繋がりが何もないのに、何世代にもわたって御言を語る者が与えられ、また、そこに喜んで集う兄弟姉妹の交わりが与えられて、教会は立ち続けています。そして私たちもまた、今朝、そういう教会に招かれています。これは思えば大変不思議なことと言わざるを得ません。
 まさに神の霊が働いて、私たちを教会の礼拝に招いてくださり、皆で一緒に「主イエス・キリストが共にいて、生きてくださる」という御言を聞き、力と勇気と慰めを頂いて、それぞれの生活へと押し出されてゆく、そういうことが起こっています。

 ですから、地上に教会が建てられているのは、その一つひとつの教会について、既にそこで不思議な業としるしが行われていると言うべきでしょう。
 教会が地上に生まれた第一日目と同じように、今日も神の霊の導きの下に持ち運ばれて、主イエスが共に歩んで下さる平安のうちを歩む者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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